本2<裁判と精神科のつながり>
- 她他后敬子(たたうしろ すきこ)
- 2024年5月11日
- 読了時間: 31分
<裁判と精神科のつながり>
民事裁判の弁護士は、あべクリニックのPTSDの診断書は裁判では使えないと言った。
弁護士は、裁判で信用がある内藤クリニックを薦めた。
Iは小西先生はどうかと聞いた。
しかし、東京から茨城の病院に通うことは体力面で苦しく、病院は駅からも遠く、駅からはタクシーなので交通費片道5000円以上になり、金銭面でも苦しかった。
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<精神科医がPTSDを判断することの被害、チェックリストの被害>
小西先生は、まずPTSDのチェックリストをするとのこと。
「眠れているか」「食事をとれているか」等の質問に0~6(数字がいくつまでだったかは定かではない)で丸をつけるもの。
チェックリストの質問を見た瞬間、どれを選べばPTSDと診断されるか すぐに推測できた。
「眠れているか」の質問に0。
「食事をとれているか」の質問に0。
しかし、本当にそんな人がいるだろうか。
0をつけた人は明らかに嘘をついていることになる。
(嘘にならないという人もいるだろうが)
Iは、大したことのない嘘を、怒られたくないがために毎日のようにつく、今も。
だけど、裁判で嘘しかつかない人間と対峙してきたからか、異様な程 自分を追い込み、真実を言わなければいけないという強迫観念がある。
こういう大切な事に嘘をつくと、自分を責め続ける人生を送ることになってしまう。
しかし、ここで嘘をつかないと小西先生の診断書が出ない。
正直に書いた。
眠れているし、食べられていたから。
実際のところ、私は眠れていないのではなく、むしろ逆で、仕事に行けたとき以外の殆どの時間、横になっていた。
精神に支障をきたしすぎて起き上がれなかった。
苦しくて死にたくてしょうがなかった。
食事はあまりとれてはいなかったので、ある意味では痩せて体重が落ち、日本が求める美になり花柳界では働けやすくなり、PTSDの基準に入りやすい外見にはなっていた。
しかし、チェックシートの診断で、小西先生は「あなたはPTSDではない」と言った。
この診断の2日後、民事裁判の公判日だったので、この精神科医の発言に更なる精神的被害を受けた。
あまりにも苦しかった。
次の診察日に小西先生に長い手紙を書いた。
「レイプに遭った被害者はみんなPTSDである」と。
「DSM-Ⅳ-TR(精神障害の分類の目的でアメリカ精神医学会から出版された書籍)は、PTSDになる確率が書いてあるが、それがそもそも間違っている」
「PTSDになる確率ではなく、PTSDの症状に差や大小があるだけで、レイプ後、心的ストレスを受けていない被害者などいない」という手紙を、長く説明をつけて書いた。
小西先生は「そもそもPTSDの人は、そんなに本が読めない」「あなたは他の医師のPTSDの診断書を持っているでしょ。それで十分だから」と言った。
内藤クリニックでも「あなたはPTSDじゃない。だけど、裁判と言う手段としてならPTSDの診断書を書きますよ」と言われた。
そんな詐欺のような手段にはのれず、お断りした。
この後、色んな精神科に通ったが、この内藤クリニックのように小西先生の名前を出せばPTSDではないと言われ(「抑うつ」とされ)、名を出さなければPTSDと名がつけられた。
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PTSDじゃないと診断されてから何度目かの民事公判。
裁判長は「本当に小西先生が『あなたはPTSDではない』と言ったのですか?」と言った。
民事裁判でもIが「意見したい」と嘆願した時は、冷酷に裁判長によって退けられたのに、こういう不利な時はつめてくる。
(こんな仕組みに不公平さを感じられない裁判官。
性別が明らかに男性に傾いていても、不平等さを自ら声をあげずに存在してきた裁判官)
「はい、小西先生はPTSDではないと仰いました。しかし、『他の医師の診断書を持っていれば大丈夫』だと小西先生は仰いました」と答えた。
他の医師のPTSDの診断書を持っていたが、認められなかった。
刑事裁判の裁判長と違って、民事のこの裁判官は酷かった。
被害者の前だというのに、犯人の弁護士と元々仲が良い感じで挨拶をしていた。
公判中は知り合いであっても交流を控えるべきだと思う。
弁護士や検事は裁判官と知り合いだと気づかせない配慮をすべきだ。
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<チェックリストの項目には個人的な症状の記載がない&
仮に一切症状が無くてもレイプに遭ってPTSDじゃないと言えるのか>
小西先生の出したチェックリストには個人的な項目はなかった。
<Iの事件後の個人的な症状>
・ブラジャーも女性用パンツも履けない。
パンツがはけないので生理など かなり面倒なことになっている。
・スカートも殆ど履いていない。
女性らしく見えすぎないように、だぶだぶの服を着る
だぶだぶの服を着ない(自分のサイズではキツイ)とすぐ調子を崩す。
・文字や言葉に対する傷つき。
こんなに言葉に執着する人には今まで出会ったことはない。
言葉が苦しいため、耳を切りたい、目をくり抜きたいという衝動、テレビを捨てたこともある。人が好きだが、言葉を発するので傷だらけになる。
苦手な言葉を話す人は、信用できない。
・逃げられないことが怖いことから、閉所恐怖症。
喫茶店でも車でも奥に入ることに異常な拒否感。
・ペットを飼う人に恐ろしさを感じる。
話せない虫や動物を飼うことは、人間の暴力(性暴力を含む)以上だと思うから、ペットを飼って家族だとか愛しているとかいうことにゾッとする。
これは、自殺未遂のあと5点拘束をされたことによるトラウマでもある。
・死に憧れをいだき続けている。
一刻も早くいなくなりたい。
苦しみながら生きていく精神力がないし、社会は生きづらく、面倒くさい。
痛いのはイヤなので、積極的安楽死を求む。
小西先生にかかっていたときは自殺を実行にうつしたことはなかったが、被害5年後と被害7年後には起こす。もちろん他のことがあって自殺未遂したわけではない。
そういう未来を精神科医は見越すことは出来ないが、多くの被害者が、それが被害なのだと確信するのに数年~何十年とかかっている。
・人工物すべてに拒否反応がある。
・殆どの男性に拒否反応がある
・恋愛やセックスに関して、頽廃的。
・ハイターを飲んだことがある。
・ヘリウムガスボンベを購入して、ゴミ袋に入って吸った。
・心が苦しすぎて、あてもなく歩き続けたことが何度かある。
・寝ていても考えている。
・遠近がおかしく、目をつぶると小さい点が前後繰り返している。
・目の中にゴキブリがいる。
・心臓が刺すように痛む。
・人の前に水蒸気の様に黒い点が無数にある。
酷い時は水蒸気が嵐の様になったことがある。
・神や仏が苦手
神や仏を信じている人も苦手
お守りやお葬式や結婚式に神や仏に付随させることを当たり前だと思っている人も苦手
亡くなった人を弔うことや結婚などと、神や仏を関係させないで欲しい。
・人の目に色が見える。
・その土地の女性差別度を何故か砂埃や色で感じる。
・被害後、自閉症のかたの特徴に似ている部分がかなりある(これはイヤではない)。
・希死念慮の入院
・自殺未遂後の保護室の入院
・5点拘束によるトラウマ症状、パニック症状
もっと症状はある。
チェックリストは一般的すぎて、このような項目はない。
・・・というか、症状が全くなかったとしても、レイプに遭っているのに、心的外傷後ストレス障害ではないと結論付けることなど出来ない。
笑ってても死にたいし、20年のうち7日 生きても良いと思えた奇跡のような瞬間があっても それ以外は死にたいと思っているし、何なら一生幸せと思えたとしてもPTSDじゃダメなのか。
レイプに遭って、苦しくても、その後 新しい自分に出会えて幸せと感じたとしても、心の被害がないわけではなく、自分が変わるほどの衝撃があったとも言える。
このままだと幸せと思えた人もPTSDだと思ってもらえなくなると脅えてしまう。
「死にたい」と言えてないだけで、生きたくない人なんて五万といる。
「死にたい」と話すと精神科医や看護師から説教されたり、話してもない人がうわさを聞いて説教してくる。
精神科医と親戚から、死にたいと言うことは「裏切り」と言われたこともある。
裏切られたと言われても、こちらの信頼を裏切ったのは加害者だ。
少しでも被害者責任論になっていないか被害者以外が注意し続けなければいけない。
2~3年前、今 通っている精神科病院の主治医ではない精神科医(その日は主治医ではなかった)に1分ほど話をしたところで「それって小西先生が悪いわけじゃないでしょ」と冷たく言われた。
別に小西先生が悪いと言いたいのではない。
小西先生がPTSDの権威だからだ。
精神科医に気付いてほしいからだ。
実際には小西先生は悪い部分もあるとも思う・・・
小西先生に「レイプ被害者はPTSDである」という手紙を2度出したら、勝手に担当を変え、Iのカルテを他の精神科医に引き継いだ。
個人情報を何も言わずに他の精神科医に引き継がせることや、担当を変えることは酷いと思う。
特に精神医は他の科の医師と違い、精神科にくるほどの心理的な事情があるのだから、勝手に個人情報を引き継がず、本人の許可を必須にすべきだろう。
せめて電話ででも知らせてくれていたら、その日、満身創痍の状態で遠いところまで通う必要がなかった。
何より、小西先生が言ったことで、Iの民事裁判はPTSDが認められないという最悪な結末になったことは確かだ。
たぶん、今でこそPTSDという言葉を多くの人が認知しているが、小西先生がPTSDに注目するまで、その時代精神科医や研究者になろうとする日本人(この時代 殆どが男性)が注目していなかっただけではないだろうか。
性暴力にもPTSDにも目を向ける男性精神科医や男性研究者がいなかった。
性暴力は圧倒的に男性起因であり、男性問題なのだが、最初に性暴力や女性問題に目を向けるのは、なぜか女性だし、それを続けていくのも女性だ。
男性は女性以上に自分事として目を向け、行動に移すべきだ。
PTSDというものを翻訳したり紹介することで権威になれた。
あらゆる人権に取り組む人がいなさすぎるが故に日本ではパイオニアになってしまう。
(Iの性暴力被害者のための会社が日本初な事だってそう。
本来 国がしていて当たり前のことだったが、それがなかっただけ。
日本初ということはカッコイイことではなく、一般人がすること自体が、まして被害者がすること自体が、日本が情けないことを表している。
働けなくなった被害者が、そんな日本の現状を知らせたくて体を売ってまでやっただけ)
【PTSDという概念自体、ベトナム戦争兵士とレイプ被害者の症状が酷似していて、治す目的で作った】ということを当時読んだ。
小西先生への手紙にも書いたが、その【PTSDは治せるもの】だという考え方や、【PTSDになる確率】という考え方自体に無理があると思う。
レイプの心の被害を治せると考えること自体が、被害者を愚弄している。
治そうという精神科医目線の善意で作られたPTSDは、実はその作った人だけでなく、精神科医自身が自分を過大評価し、主役を被害者本人ではなく、自分にしてしまっていることに気付けていない。
精神科医にしても、他の医師にしても、知識や手術などの経験が被害者や患者よりも勝っていたとしても、体現しているのは被害者や患者であり、臨床をさせていただいている師は 被害者や患者なのだという意識が欠けている。
まずは、「治せないということを精神科医が認めることから始めないといけない」とずっと感じてきた。
もちろん、被害者も「治った」という人は多い。
それはそれでよい。本人だから。
自殺した人も多い。
その人は少なくとも治らなかった。
「自殺者は本当は治るのに、途中で投げ出したのだから除外して良い」と考えるのは、おかしい。
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レイプという事が実際に行われたのに、心のストレスが治るとはどういうことなのか。
それは症状が軽くなったに過ぎない。
(また、数十年経って思い出してPTSDになることも粗にある/ザラにある)
たとえ認知症になって、レイプ自体を忘れたとしても、本当にPTSDが治ったなどと言えるのか。
たとえ(認知症や、脳に損傷を得る大事故や、毒ガスを吸って脳にダメージがある等、極端な場合の様に)レイプ自体を忘れるようなことがあったとしても、心の被害がなくなったと言えないのなら、そうでない一般的なレイプ被害者をPTSDではないと判断すること自体が 大きな被害だ。
レイプに遭った後、PTSDが治るということ自体、被害者を愚弄している。
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Iは、そう その当時 考えていたし、そう小西先生への手紙で書いた。
しかし、27歳の時に考えを変える。
『レイプ被害者はPTSDだが、被害者自身が「自分はPTSDではない」と思っているとき、その被害者はPTSDではないで良い』
つまり、被害者本人が決めたら良い。
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<小西先生に関する本3冊>
❶ 27歳の時に、少しだけ通った法律学校の「刑法」の本のPTSDの項目に小西聖子そじんの名があった。
つまり、法律を学ぶ人たちの教科書に載っている。
➋2022年3月1日 小川たまか著「告発と呼ばれるものの周辺で」
P65
(大阪大学豊中キャンパス、ジェンダー法学会シンポジウム【性被害と司法のジェンダーバイアスー刑事判決の分析から】に)被害者心理の第一人者と言われる小西聖子さんがいた。
P66
(フラワーデモのきっかけとなる4つの裁判の3つ目<実父から娘への性虐待で性交の事実が認定されながら無罪判決>である2019年12月13日の名古屋高裁の控訴審に)小西氏は、被害者に適応障害があったと診断。(略)
PTSDの診断基準には当てはまらないものの、「話の仕方や感情の表現の仕方」が複雑性PTSDに見られる傾向であることを指摘した。
P69
私が、この日、小西さんが証言台に立ったことを記事に書くと、ツイッターでフォロワー数の多い被害者支援弁護士の「らーめん」先生が、「小西聖子先生キター!!」「性犯罪被害者について日本で最も詳しい人」とツイートしてくれた。
私も法廷で、トレードマークの美しい銀髪を見たとき、とてもうれしかった。
ネット上では尊いと感じる相手を「神」と表現することがあるが、まさに神様がきてくれたみたいだと思った。
P81
改正を求めてきた人たちが喜んだのは、選ばれたメンバーだった。(略)
被害者の視点を持った委員が複数選ばれた。
P83
小西さんは前述したとおり、性暴力被害者心理の第一人者と言われる精神科医だ。(略)
見当会メンバー17人のうち少なくとも5人は被害者側の視点を持って意見を述べるということだ。
小川たまかそじんは性暴力について取材しているかたで、フラワーデモのきっかけとなる4つの裁判も丁寧に書いている。
Iは、被害者側の視点とは、少なくとも、性暴力被害者だとカミングアウトしている支援者や研究者を指してほしい。
カミングアウトしていない専門家や支援者もいると思うが、少なくともカミングアウトはしていないのだから、その時点で被害者側と言うのはやめてほしい。
専門家や支援者を被害者側の視点というのは違う。
❸2022年1月26日小松原織香著「当事者は嘘をつく」(レイプ被害当事者の本)
P64
私の目が釘付けになったのは、精神科医・小西聖子の「修復的司法と被害者支援犯罪被害者にかかわる精神科医の立場から」だった。(略)
そこには性暴力被害者が加害者と対峙する修復的时候の可能性が、批判的に論じられていた。(略)
いま読めば、周到で非常に繊細に問題を扱っている論文だと分かるが、当時の私は激しく動揺して、「なんでこの人は性暴力被害者の対話の機会を奪おうとしてるんだ」と憤り、図書館の椅子に座って震えながら読んでいた。(略)
「赦し」や「和解」といった見かけの良い言葉に応じることが出来ないということに、被害者はさらに傷つき、過敏になるからである(六四頁)と書いてあった。
私はそれを読んだとき、叫びたかった。
「私の話も聞いてくれ!!」
<赦し>について語りたい私だって、性暴力被害者のはずだ。
私だけでなく、自助グループにも、同じように<赦し>について考えている仲間がいる。
それなのに、なぜ、この精神科医が勝手に私(たち)の声を代弁するのだ。
そうやって、精神科医に<赦し>を禁句にされると、私は傷つき、過敏になる。
私を苦しめているのは、あなたのこの論文だ。「あなたは当事者ではない。勝手なことを言わないでくれ」という激しい怒りが湧いた。
P86
回復するだけがサバイバーの人生だろうか。
私(たち)は、「心の傷が癒されるべき存在」として矮小化されていないだろうか。
<支援者等 被害者以外の 心構えを考える上で紹介したい4つ>
➀(P101に紹介されたマツウラマムコの文章)
2005年『女性学年報』第二十六号 マツウラマムコ「二次被害」
P115
支援者の中にも暴力をふるわれた経験のある人もちろんいるだろう。
そのような人が「自分もサバイバーである」と名乗りたいのであれば、被害者と同じ立場で名乗ればよいと思う。
つまり、被害者を見下ろし、被害者には体験を語らせながら自分のことは語らなくてよいという安全な立場、さらに高みに立って被害者を一方的に分析したり代弁したりできる支援者という立場をやめなければならない。
そのような特権を手放した支援者による暴力の経験の話はサバイバーにとって歓迎すべきものだと思う。
➁2021年7月5日 鈴木涼美&上野千鶴子 往復書簡「限界から始まる」
P29
<上野>30歳を超えたあなたは、「私より若く賢い女性たち」について世代論を書いていますね。
「彼女たちが強く希求しているのはきちんと被害者の名を与えられること」だと。
「与えられる」のではなく、「名のる」と言ったほうが正確だと思いますが。
そしてしばしば誤解があるようですが、「被害者」をなのることは、弱さの証ではなく、強さの証です。
あなた自身が「被害者であることを恐れない態度」と書いているように。
伊藤詩織さんが「私は性暴力の被害者だ」と名のることに、どれほどの勇気が要ったかを想像するだけで、じゅうぶんでしょう。
「被害者」と呼ばれたくない、「弱者」であることがガマンできない、という気持ちをウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)と呼びます。
エリート女性がしばしば陥りがちなメンタリティです。ホモフォビア(同性愛嫌悪)と同じくウィークネス・フォビアもまた、自分のなかにあるからこそ、より激烈に検閲し排除しなければならない、弱さへの嫌悪を指します。
「慰安婦」を嫌う右翼の女性にあるのも、同じメンタリティでしょう。
女が被害者面をするのが許せない、私はあのひとたちと同じではない、私は弱くない・・・・・・と。そしてこんな女性ほど、男にとってつごうのよい存在はありません。
こんな心理的機微がよくわかるのも、わたし自身が過去にミソジニー(女性嫌悪)の「エリート女」だったことがあるからです。
P45
<鈴木>私は先日いただいたお手紙でもお名前の挙がったジャーナリストの伊藤詩織さんのことは心から尊敬します。私はあのような表現はできません。
自分が受けてきた性暴力も暴言も、自分の愚かさを呪ったり笑ったりすることで飲み込んできました。
暴力と近しい場所にいる無数の夜職女性のほとんどがそうでしょう。
その態度が、セカンドレイプ発言や自己責任論など、被害者を傷つける言説と近しい場所にあるのも自覚しています。
はっきり区別しますが、私は被害を受けた女性の行いについて彼女たちの愚かさを指摘する気は全くありません。
しかし自分自身のことでは、私は被害者になる権利はないという考えから自由になったことはありません。批判や落胆を恐れているという以前に、誰にセカンドレイプ発言をしてもらうまでもなく、自分で自分にセカンドレイプの暴言の限りを尽くしてしまうからです。
私は自分を愛してくれた母が否定する世界に入った時に、その先に起こりえるすべての被害を引き受けてしまった意識があり、例えばAV出演でもらったギャラと引き換えに、男性による搾取を訴える言葉を失ったと感じてしまいます。
他者にそのような態度を強要した覚えはありませんが、先月いただいたお手紙にありましたように「『弱者』であることがガマンできない」女性がいかに男性に都合が良いかを考えれば、私がそうであることが、搾取の構造を再生産し続ける可能性を無視できず、これは私の大きな悩みの一つです。
ある程度の自分の愚かさを許した上で、被害者を名乗れるくらいに強くなることは、母を失った今、可能なのでしょうか。
自分が愚かだったと伝えること自体が、他の被害者を傷つけるのでしょうか。
P57
<上野>あなたの倍近く、長く生きてきたわたしは、上から目線と言われても、あえて言いましょう、ご自分の傷に向きあいなさい。痛いものは痛い、とおっしゃい。ひとの尊厳がそこから始まります。自分に正直であること、自分をごまかさないこと。
その自分の経験や感覚を信じ尊重できない人間が、他人の経験や感覚を信じ尊重できるわけがないのです(それを前便でわたしは「『被害者』を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証」と書きました)。
P188
<上野>いつまでその枕詞(元AV女優の)をつけて、仕事を続けますか?(略)
当事者としても価値には、賞味期限があります。
乙武さんには「障害者としての当事者性」、また伊藤詩織さんには「性暴力被害者としての当事者性」があります。
しかし、そういう当事者性は一度書けば終わりです。ひとは自分史を何度も書くわけにはいきません。
どんなひとも一生に一度は傑作を書くと言われますが、職業的な書き手は、一度ではなく、何度も継続して書き続ける必要があります。
P319
<上野>セクハラとDVに詳しい心理カウンセラーの信田さよ子さんの近著『家族と国家は共謀する』(角川新書、2021年)にこうありました。「被害を認知することは服従ではなく、抵抗だ」と。それは弱さではなく、強さの表れです。
鈴木そじんが素晴らしいです。
上野そじんの言っていることはカッコはイイのですが、正直にさらけ出している鈴木に対し、上から言っている感じと、自分のことは少ししかさらけ出さない感じは、マツウラマムコが書いている文そのままの感じがあります。
少なくとも上野そじんは自分が被害者であるとは書いていません。
それならマツウラの言う「被害者を一方的に分析」することを止めなければならない。
また、「当事者性は一度書けば終わりです」とは全く受け入れられません。
例えば推理物のフィクション作家が全員が犯人だという小説を書いたとして、もう一度全員が犯人の小説を書くことは、あまり読者に好まれないでしょう。
しかし、フィクションとノンフィクションは全く違います。
そして、ノンフィクションでも、「ルポルタージュ(当事者でない人が現地に赴いて取材すること)」と「当事者」も全く違います。
また当事者でなくとも、広義のルポに研究者のようなかたを含めるとしたら、そのことをずっと研究発表していてもおかしくはありません。
当事者は、一生その問題と付き合っているかたが多い。
問題提起することも多く、時代によって移り変わったり、考えが変わったり、国によって変わったり、革新的な問題解決の取り組みが行われたりする。
当事者の書くものは、売れるかどうかや、活躍できるかどうかではありません。
鈴木涼美、伊藤詩織、乙武洋匡を書き手として捉えて、そう書いているのだとしたら、それは当事者とは切り離すべきです。この方々が当事者として書くときには、一度書けば終わりなどということはありません。
鈴木涼美を被害者と上野自身が認識しているのなら、相手に主役を返すことに徹しているか、また主役を返すとしても上から目線で言っていないかを自己チェックしないといけない。
信田さよ子そじんの「被害を認知することは服従ではなく、抵抗だ」は、弱さではなく、強さの表れですが、受け入れない方法や、記憶喪失になる等もまた、弱さではない。
変えることを他者が求めることが間違いだ。
今まで上野千鶴子そじんの本は沢山読んできましたが、女性より男性を先に持ってくることが殆どです。
表現者が今まで、「男女」や「夫婦」のような順番の女卑男尊言葉をどのくらい使っているか、過去の著作を見るべきです。
まして、フェミニストであったり、女男平等や女性の地位向上を望むなら、言葉の女卑男尊に気付き、並びに女卑男尊がないか 丁寧に言葉を並べることだと考えます。
自分がどれほど女卑男尊の言葉を使っているかは、今までの著作で「女男」と「男女」どちらを使っているか、女性を先に言う言葉がない場合、どのように表現してきたかで一目瞭然なのです。
Iが22歳のレイプ被害直後に 浮かんだイメージがあります。
頭に浮かんだものをキチンと表に書いたのは27歳のときです。

その最下位の5位に位置しているのは、「男女」という言葉を使う筋力の強い性です。
Iは3位なのですが、2位が4位より酷いことを言うことはよくあります。
その場合は、地位に配慮し、4位や3位の自分は2位より下であると自覚し、その上で上位のかたに「それではダメです」と伝えることにしています。
当初5年程は、自分より上位のヒエラルキーには否定的な意見は言ってはいけないと自分に課していたので、物凄く苦しみました。
しかし、それでは1位を守れないことが多く、2位のかたにとっても良いことではないことに気付きました。
その為、2位に「ダメだ」と示すことが、その方のためにも必要だということに至りました。
そして、下位のものであっても、上の地位のものに「ダメだ」と伝えることを可にしたのです。
この伝える時には、自分の方が地位が低いのだと、自分を律する必要があります。
それが出来ない場合は、まだ上位のものに伝える資格は整っていません。
「男女」という言葉を使うかたは、女性なら2位、男性なら5位に位置しています。
このヒエラルキー上では、「女性に暴力を振るう人」などではなく、
「『男女』という言葉を使う人」を最下位に位置させました。
22歳の日本を見抜く力がそう舵をきらせました。
それでも、あなたは「男女」を使い続けられますか?
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➂<龍谷大学教授で3年前に特定妊婦等生活支援施設「おにわ」を立ち上げた上間陽子そじんの言葉>
特定妊婦とは特に注意が必要な妊婦たちで、診察を受けられない背景には、過去の性虐待や暴力等トラウマが影響していることが多々ある。
・「女性たちが抱える最も大きな困難が、表に出せない深い心の痛みや恐怖。(彼女たちは)『困っていない』と認識することで なんとか頑張りきれている。」
・「性虐待とか性暴力を受けた女性が出産時にどのような気持ちや恐怖を抱えるかって、身体拘束って常に(記憶に)あるのでこれは とても怖いこと。
分娩台に上るというのも(加害の)シーンとして似ているので、やっぱりそれも怖いんです。
(産科の医師や助産師や看護師や家族が)『リラックスして』とか『体の力を抜いて大丈夫だよ』って言葉は、特に幼児期性虐待の子たちは(加害者に)聞かされているんです。
だから、これをされたときに、助けてくれるはずの医療人が自分に加害をしてきた人になってしまって、ものすごい恐怖になっているんです。」
上間陽子そじんの言葉を聞くと、鈴木涼美そじんが「自分が受けてきた性暴力も暴言も、自分の愚かさを呪ったり笑ったりすることで飲み込んできました。」と生きてきたことは【実は、トラウマを抱えた女性たちのように生き抜くサバイバル法の可能性がある】と感じます。
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➃<サバイバル法について>
2005年著「性暴力を生き抜いた少年と男性の癒しガイド」(日本初男性の性暴力を扱った本)
サバイバル法(サバイバル技術)とは、性暴力被害者が被害後生き抜くために取ってきた行動で、無意識での行動も含む。例;記憶をぼやかす、記憶を封じる、様々な依存(お酒、運動、食べ物、テレビ、インターネット、ギャンブル、セックス、暴力)など
『自分のサバイバル法を非難しなくて良い。ゆっくり「自分のサバイバル法」から「自分のセルフケア法」に移行していこう』と紹介されている(たぶん1990年代の英語圏の取り組みを紹介している)。
セルフケア法とは、サバイバル法のように自分を痛めてしまう方法をとらない「自分なりの癒す方法」をいくつかもつこと。
<セルフケア法の例>
自分にとって安全な場所をもつ、笑う、深呼吸する、運動する、こまめに休息をとる、ボランティア活動や寄附をする、セルフマッサージ、言葉にする、ゆっくりお風呂に入る、好きな音楽を聴いたり演奏する、規則正しく生活する、自分が好きなことをする、自分に何か買ってあげる(買物依存症でない方法で)、ドライブ、瞑想、何もしない、何も考えない時間をつくる、曲を書く、詩を書く、絵を描く、プラモデルを作る、何か創造的なことをする。
注意:セルフケア法にサバイバル法を入れないようにする
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<上記の紹介や引用から【Iが言いたいこと】>
<レイプ被害者に『主役を返す』ことを念頭に置けない支援者(精神科医や社会学者も含む)はレイプ犯と同じことをしてしまっている>ということ。
レイプ被害は自分の体を自分のものに出来なかった被害。
主役を被害者に返すことを他者が意識することが重要。
精神科医や社会学者など被害者以外(すべての支援者)が、主役をとっていないかをいつも自己点検し続けなければならない。
たとえアドバイスが合っていたとしても、諭す行動自体が主役を奪う行動であり、レイプ犯と同じ方法をとってしまっているのに気づけていない。
それは、たとえ自分の本であっても駄目なのです。
その為に被害者は、支援者等のアドバイスや諭しを本で読むだけで、異常な拒否反応が出るのだと思います。
傷つけられていると感じ、強い憤りを感じます。
諭してくる・話している内容が合っている場合、被害者は論破することが出来ず、苦しみます。
自分の性という最も大切な主導権を、強引にとられてしまった経験(レイプ)は脳に刻まれています。
その被害者に、被害者以外の人がしなければならないことは、主役をかえすことを意識し続けるということ。
被害者だと名乗っていない人が、自分の考えを言うだけで 主役を奪うレイプ犯と同じ行動をしていると気づいて欲しいのです。
これが、被害者だと名乗っている人だと、その人の考え方だと納得することは出来るのです。それでも、被害者本人の考えによって、他の被害者を諭すことは出来ません。
レイプ被害者は自分の被害を名乗らなくても良いのですが、名乗っていない場合、名乗っている被害者を諭す行動や主役をとっていないかを常に気をつけなければいけないと思います。
名乗っていなくても、本人は自分がレイプ被害者と思っているわけですが、(他者である)他のレイプ被害者からすると その人をレイプ被害者だとは認識していません。
そのため名乗っていない人が、名乗っているレイプ被害者に仲間意識で話すと、レイプ被害者に主役を返すということが出来ていないために、レイプ加害者と同じ構造がそこに出来上がってしまうからです。
レイプ被害者が、「名乗っていない被害者を被害者だと考えていない」為に、被害者同士で傷つく・傷つける構図になってしまいます。
そのために、名乗っていないレイプ被害者のかたは、名乗っているレイプ被害者の主役に配慮出来ているかに注意する必要があるとIは思います。
特に「先生」と呼ばれる可能性のある職業や、「支援者」と名がついている職業の人は、ほとんどの人が それに気付かずに行動しています。
上野陽子そじん(龍谷大学教授&「おにわ」主催)のように、どうして当事者が その行動になるのかを考え、まずは当時者以外(この場合は、被害者でなく特定妊婦なのですが、トラウマ等を抱えているケースが多い)の支援者等のほうを変えられないか徹底的に考える必要があるでしょう。
先生や支援者と名がつく人々は、教えることを当たり前にしてきたことが最大の欠点です。
その与える構造が、レイプの構造と似ているのです。
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Iは「レイプ被害は、被害者が否定しない限りPTSDでよい」と考えます。
心的外傷後ストレス障害を伴っていないのなら、それはレイプではないと思えるから。
乱暴に言うなら、心の被害を伴わないのならばレイプではなく「凌辱プレイ」だということ。
凌辱プレイは望んでいたり、想定されていることであって、レイプとは全く違います。
レイプの裁判では精神科医の診断などなしに、標準の状態でPTSD認定すべきだと思うのです。
精神科医の診断を1年半続けないと年金申請出来なかったり、加害者が被害者にお金を少しでも払ったら年金がおりないという仕組みはおかしいです。
民事裁判の判決のお金と、公的な年金は切り離すべきです。
レイプ被害者がもっと年金の申請を出来るようになるべきです。
金銭面で困窮しやすく、精神的に厳しくなりやすい被害者が、精神科に1年半以上通い続けることは厳しいし(精神疾患と思われたくない被害者も多い)、レイプに遭っているのに精神科医の意見が必要なことがおかしい。
レイプ被害者は、言わないだけで実際は多い。
その人達が皆 年金の申請をしたら、日本は立ち行かなくなる可能性があります。
しかし、それは被害者のせいではありません。
加害者や、加害者を生みやすい社会の責任なのだから。
被害者は被害後、生きることが困難になっています。
被害者を少なくするためにも、加害者を生まないためにも、国の税金を使い過ぎないようにするためにも、国をあげてレイプをなくす取り組みをするしかない。
レイプ被害者が精神科医にかかり続けないと年金がおり続けない仕組みも、被害者を苦しめています。
<被害者主役の例外がある?!>
まずは、親告罪と非親告罪の違いを書きます。
【2017年、性犯罪は親告罪から非親告罪に変更】されました。
<親告罪>性犯罪では被害者の名誉やプライバシーを侵害するおそれがあるとして、被害者の意思を尊重するために、被害者が告訴する必要がある親告罪と規定されてきた。
しかし性犯罪の被害によって肉体的・精神的に多大な被害を受けた被害者に対して、告訴するか否かの選択を一定期間に迫ることが、逆に被害者に負担を負わせることになっていると考えられるようになる。
<非親告罪>2017年、性犯罪に関する刑法の大幅改正110年がされ、親告罪とされていた一定の性犯罪について非親告罪になった。
また、この改正で被害者に男性も含まれ、肛門性交や口腔(こうくう)性交も「性交等」として罰せられるようになった。
<被害者が主役であることを蔑ろにしたこと>
「告発する」と警察署に訪れたことがある。
それは、被害者が今も被害中だと知った日。
管轄の警察署に1人で乗り込んだ。
【性犯罪被害者支援 きう株式会社 代表取締役】という名刺を警官に渡した。
当然、警官たちは親告罪だからと説明してきた。
そもそも本人が告訴すると言ったって、警察はなんだかんだと理由をつけ受理しないことを、被害者たちや、自分のケースで思い知っていた。
だから、親告罪当時、他者が告発とかしても無駄だと分かっていた。
態度の悪い20代の男性警官が担当になったのか、話をしはじめて早々 鼻であしらわれた。
「担当を代えてください」と本人に伝えた。
「僕じゃダメってことですかぁ?」
「はい、その通りです」
バカにしていた相手から、きつく返された警官は目を丸くして、信じられないコイツという目でこちらを見た。
恐ろしかったけれど、この警官ではダメだという自分の直感を信じた。
代わりに50代の男性警官が入ってきた。
話の分かりそうな雰囲気があったが、やはり無理だという説明をしてきた。
・・・少し経って、慌てた様子の40代男性警官が部屋に入ってきた。
「これ・・・」とIの名刺を50代警官に見せながら、「ちょっと来てください」と言い、2人は出て言った。
返ってきた時、50代の男性の目は全く違う真剣なまなざしに変わっていた。
ホームページを見て様子が変わったらしい。
当時、今のようなホームページのテンプレートはなく、初めて作った 不格好なものだったが、命がけのホームページだった。
Iの事件で、三田書で行われた不手際を、警官から係長、所長の名前を載せて不手際を事細かく書いていた。
警察官の本名を書いていることで、警察に捕まり、酷いことを受けると毎日 覚悟して生きてきた。
命がけで、警官の本名を出してしまうヤバイ人間に映ったのだと思う。
会社の内容は、裁判の費用の肩代わり(返さなくて良い)と書いていた。
戻ってきた50代警官の目には尊敬の色がはっきりとあり、穏やかであり、Iはこれから落ち着いて(時間をとって)話が出来るのだと分かった。
Iは被害が続いていることを伝えた。
恐ろしいことが行われ続けていることを知る限り伝えた。
なんと親告罪当時、捜査になった。
(上記は被害者は警察に言いたくないと言ったが、Iは「私に任せて欲しい」と伝え、頷いてはくれた。)
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被害者が主人公と言いながら、あまりにも酷い被害が続いている時、どうしても通報せずにはいられない。
被害者が成人の場合、相手に恐ろしく責められた。
なにより自分自身を責め続けた。
2017年法律改正され非親告罪になったとき、自分の罪を重ねなくて済むことに安堵した。
「デンマークでは未成年が性暴力に遭ったと知った時、公務員や子どもに関わる職等、多くの人に通報義務がある。通報しなければペナルティもある。
I自身は、未成年じゃなくても、通報すべきではないかと思っている。
今は日本も非親告罪です。
Iにだって意思がある。
あなたに嫌われても仕方がない。
通報します」
この頃もこう言ったばかりだ。
非親告罪になっても、被害者と揉めて関係は立たれてしまう。
仮に被害者が そのことが元で自殺する選択をとってしまっても(今までは ありませんでした)、【加害男性達が何人もで1人の女性をレイプし続けていたり】、【沢山の男性に売られていたり】、【DVで命の危険がある場合】は通報しました。
被害者が了解していないのに。
Iの行動は間違っている。
でも、事態を見守るなんて出来なかった。
一刻も早く行動することが求められていると考えてしまう。
【被害者では どうしようもない恐ろしい性被害やDVが続いている時】には、被害者の意見より、Iが自分自身で考え行動するより、一刻も早く警察やワンストップに通報することだと考えている。
<子の自立と保護者と国>
女の子がいる保護者は、「自立する(保護者がいる家から離れる)時に、【セキュリティー対策】や【金銭援助】を講じないことが、性犯罪にあう可能性を限りなく高めている」ことを知る必要がある。
社会に出ていく女性(女の子)が「援助は必要ない」と言ったことを保護者が信じて援助しないことは、社会の先輩である【保護者の責任放棄】を意味する。
性暴力は女性の貧困、孤独、障常者(障害者のこと)に寄って来る。
このうち、自立時の【貧困と孤独】は保護者が対処可能なことである。
性加害をする加害者が全て悪い事が大前提で、それでも出来ることはある。
例えば、カーテンは女性の一人暮らしと分からない物を買ってあげる。
干すための男性用下着なども買ってあげる。
セキュリティと、貧困にならないような金銭援助(人から、この子はお金に困っていると感じさせると性暴力だけでなくパワハラ・モラハラにも高い確率であう)は【女の子が自立する際の保護者の責任】と考えるくらいで良い。
親でなく保護者としたのは、親の貧困や不在の為に援助できないことがあるから。
保護者は親、祖母父に限らず、広義で社会や国も意味する。
もちろん実親は、【セキュリティー対策】【金銭援助】を講じないといけない。
ただ日本は、実親だけが子を見ることを変えなければならない。
福祉国家である北欧やイギリス等は「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに、『経済優先』ではなく、『人の安心』や『幸福』を元に国家を組み直してきた。
日本の様にレイプ(凌辱もの)をポルノに入れたり、アニメやアニメフィギュアや萌絵やセックスドールで女児に見えるものを性対象にしてしまう国は異例だ。
(日本のアニメ文化が世界に影響を与えてしまったり、日本が戦時中に朝鮮等に影響を与えたことでその国の女性差別や家父長制のルーツを作ってしまったこともある)
日本は30歳くらいまでの若者のセキュリティーに目を向け、特に女の子の安全に(被害に遭う前に)投資する必要がある。
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